2026年2月22日(日)
春の明るい陽射しがさし込む、晴天の日を迎え、本日の明日山会メンバーの
行く先は、広島湾から見える。目と鼻の先の、江田島(能美島)となります。
江田島は、瀬戸内海に浮かぶ島ですが、結構、高い山が多く、本日の登山
のお題は、「江田島名峰巡り」となります。山頂までは車で登れるので、山頂
から見える瀬戸内海と、点在する島々の絶景スポットを、存分に堪能できる。
本日の参加メンバーは、女性4名、男性3名の7名が、2台の乗用車に分
乗して、7時半に商工センターを出発。湾岸道路を超え、呉市内を通り抜け。
音戸大橋から、早瀬大橋を渡って、あっという間に江田町の町内を走行、
左に曲がって、いきなり山の登り道に入り、道路も細くなり、カーブにゆられ
ながら、狭く、厳しい山登りに差し掛かります。
運転をされている、Tさんと,Mさんが、少し狭い、舗装された山道を、しっかり、
ハンドルを取られないように運転、お二人とも、運転に思わず力が入ったとか?
車は一気に、陀峯(だほう)山の近くにある、海岸の崖の近くにそそり立つ
ごつごつした岩山、すなわち天狗岩が見えるところへ9時時半ごろに到着。
| この看板を右に40mくらい、海側に小道を、 下がるとごつごつとした、天狗岩があります。 |
道幅の広いところへ車を止め、そこから少し下ったところに「天狗岩」の看板。
その看板のあるところから右に、海側にそっての崖路を暫く進むと、その先には、
ごつごつとした石コロの塊のような、大きな置物のような、岩の怪物が山肌へ
くっついているのが見えます。これが、いわゆる「天狗岩」と呼ばれ、皆に親し
まれている岩山の出っ張り岩です。
岩の向こうには、先ほど通った早瀬大橋や付近の山々や、青く輝く瀬戸の海が、
絶景を見せてくれます。岩の間に立って記念撮影です。
天狗岩へ、へばりついて頑張ってます。
車を再び、走らせ、近くの陀峯山 に昇り、しばし休憩する。
そこから、更に車を三高の町や三高山へと一気に向かう。本日の本命は、
三高山にある砲台の跡を見に行くことにあります。
三高山(401.8mh)の頂上に上り切ったところの山頂の広場に、数基の砲台の
台座の跡があり、ここに、明治時代の後期に建てられた兵舎や、大砲や砲弾を格納
した倉庫などが残っており、緊迫した雰囲気が漂ってます。
<三高山砲台の歴史>
が急を告げる明治31年2月を境に、バルチック艦隊の入港を阻止するため、
広島湾一帯の数か所の一つとして、起工し2年の歳月を費やして完成した。
播州煉瓦と、いわれる独特な素焼きの煉瓦で造られた幾つかの兵舎があり、
ここには280ミリの榴弾砲6門、90ミリ速射砲4門、90ミリ台砲4門、
弾薬庫4棟、機械設備庫や大規模な旋回監視所、その他の建物が残されています。
三高山砲台は、総面積6万坪(198、000㎡)あり、西日本最大規模とも伝えられ
近代の土木技術を今日に伝えています。
| この写真の場所に、大砲の発射台が設置されていた。この山頂には、 このような区画をされた、大砲の発射台の区域が、数か所あった。 |
訪れたとき、この砲台の陣地や設備に関して、彼が過去の様子を推測していた
ことを、思い出します。
| 三高山頂にあった砲兵の兵舎, 左端に、炊事場がある。 |
明治時代の終わり頃に作られた砲台の基地に、これを守る兵士の宿舎が
あって、そこに何人かの兵士が泊まり込み、炊事などをして
この基地の運営と防御活動に携わったことが、伝えられています。
増田君が頂上の炊事場の「くど」に使ってある、赤い煉瓦や、建物の壁に
使かってあるブロックなどを見て、「この場所の建設に配属されていた関係者や
配属された兵士達はかなり、優遇されていたに違いない。」と言っているので、
その訳を尋ねると、「特に、赤い煉瓦などは、当時は非常に高価なもので、
この辺では,簡単に手に入らなかった。その高価な煉瓦をわざわざ、
山の上に持て上がって、炊事場の「くど」の構造の材料に使うのは、当時かなり
贅沢だったとのとのこと。
このことから、当時の明治政府が広島市や、日本の本土の防衛に、如何
に力を入れていたかが、良くわかるのですが、当時の砲台は、ここの
江田島の三高山だけでなく、宮島の鷹ノ巣山の上にも砲台があっって、
江田島と宮島を結ぶ海域に侵入して来る敵の艦船を、両側から大砲で
追い散らす作戦だったようでした。
日露戦争は、ロシアのバルチック艦隊が、瀬戸内海に入る前に、
東郷元帥の率いる日本海軍に撃沈され、日本とロシアとの戦争は終わり、
これらの場所から、一発もの砲弾も発射されずに済んだとの事でした。
本日はあまり、山登りの記事になっていませんが、三高の砲台山の見物で、
知ったことは、地元に住む者として、我々の過去の知識として知って
おくことも、あり!と…思いました。 完。