Wednesday, 2 December 2020

新高山・郡山 (Nitakayama・Kooriyama) 城跡巡り 


20201122

 今回は増田さんの寄稿です。

 よく晴れた青空のなか 殿3方 姫3方、が2台の車に分かれて8時に商工センターを出発。

目的地は標高197・6M 三原の新高山、昼からは標高390M比高190M 安芸高田市の郡山。明日山会始まって以来の低山である。

9時過ぎに本郷新高山登山駐車場に到着するとそこには、車・バイクが沢山駐車してなんか大変活気がある

目の前にそそり立つ新高山(にいたかやま)

(続日本100名城)の幟がたててあり観光協会の人の姿も見える。

目の前にそそり立つ山が新高山、沼田川を挟んで東が高山。

私(M)は神社仏閣巡りと歴史由来ものが大好物で山登りはその付属のような感じである。

足腰が衰えたのでその言い訳にしかすぎないのですが“..

まず登るまえに本郷 沼田 吉田 の歴史を1516年から1555年の間を見てみましょう

 これによっておもしろさが10倍になります。

 1516年は安芸の半国守護武田氏と毛利氏・吉川氏との戦いで圧倒的に少ない兵の(毛利氏・吉川氏)が勝利をおさめ毛利の名が広がります。

(西の桶狭間の戦い)有田 中井手の戦い

 1523年は尼子氏と大内氏の戦いが東広島西条鏡山城でおこり尼子側についた毛利氏の活躍で尼子氏が勝利をおさめます。(鏡山城の戦い)

 毛利氏の活躍を目前にした大内義興は毛利氏に大内同盟に加わるように働きかけ毛利氏は尼子同盟から離れます。

 1540年 毛利氏は郡山城の戦いで尼子氏を打ち破り一躍戦国大名になる。 同じ年に竹原小早川当主が戦死し元就の兄の娘の嫁ぎ先でもあり元就の活躍を見込んだ竹原小早川家が当主を依頼してきます。

 元就は3男の隆景を送りこみます。

 一方小早川本家のある沼田地区は大内と尼子が激しくぶつかりあう場所で激しい情報戦が繰り広げられ、当主が目を患い病弱のうえに尼子氏に味方するグループと大内氏に味方するグループにわかれ、内紛状態にありました。

 そのようななかで大内氏が親毛利派の乃美氏に働きかけ分裂を引き起こします。小早川隆景を当主の妹の婿にして先の当主を謀反の疑いで追放したのです。

1551年 小早川隆景 高山城に入城。

1552年 小早川隆景 沼田川(ぬたがわ)の対岸の新高山に根拠を置き、そこに新高山城を築くのです。

城完成後、直ちに旧勢力を一掃し毛利系小早川氏に塗り替えました。源頼朝義経の有力武将で鵯越えの合戦で大活躍した小早川一族がここに消え去ることになる。

 さてそれでは小早川隆景の築いた山城跡のある新高山に登りましょうか。とまれ、またまた脱線 新高山は(ニイタカヤマノボレトラトラトラ)の暗号文と同時に当時の日本の最高峰の山と同名であったいまは台湾にある。

 それでは登ります 。

9時半駐車場を出発右に神社を拝みながら5分ほどで階段になる

ニイタカヤマノボレ」の合図でワッセ、ワッセ

道はびっしりと落ち葉で埋もれていてクヌギの木のとげのある葉で、ドングリもイガイガに囲まれ強そうな感じである階段正面に大きな案内版がある。

その下に続100名城のポスターが張ってありスタンプラリーの案内もある本郷町の町お輿の シンボルなのであろう。

史跡、小早川氏新高城の跡の看板 

5分ほどで番所跡に着く大手道を警備する門で3か所ほど造られ、その西側に元就と正室妙久を弔う寺院がある。 毛利一族の城であるとの意味が込められているのだろう。



カエデクヌギの紅葉

そこからすぐに中の丸跡 本丸跡となり展望の良い 詰の丸あとに到着したのが10時20分音声案内が絶えず響き、絶えず登山客がいる。


集合写真を撮り、ここから眺める景色は素晴らしい

本丸跡でニッコリと一枚


向かい山は高山その間に流れる沼田川が三原の海に向かって白くながれている

                                     高山と三原の先にしまなみの大橋が見える。

 当時は海水が山裾まで入りこんでいて船の出入りがあり市場がたって繁栄していたようだ。

沼田川が白く光って三原の海に続く

 山の下に目をやれば、高山と新高山の腹を新幹線が走り、その下をJR山陽本線が走っていて、こんな展望はほかにはない。

谷間には、山陽新幹線とJR山陽本線が交錯している

貨物列車が丁度、新幹線の下を通過 



 この山は巨岩で囲まれ石鉄権現の摩崖仏が彫り込まれ力強い守護神が立っているのもいい。石鉄権現はたぶん石鎚権現のことと思うが..。

 


石鉄権現の摩崖仏さん 


石鉄大権現さん

10時半新高山の下山開始。

新高山駐車場に11時過ぎに到着。直ちに、郡山に向けて出発。

郡山公園駐車場で直行のMさんと合流12時半公園の四阿家で昼食をとる。


 ここら辺で昼食

 いつも沢山のデザートの提供があってこの会は家族的でいいなー。

 この吉田郡山城跡はあまりにも有名で、

 1540年吉田郡山城の戦いで、尼子軍3万に対して毛利軍2千 大内軍の援軍をうけたが尼子軍に勝利して毛利の安芸戦国大名の地位を築く。

毛利元就公の墓所山道

日本100名城で有名 百万一心は、郡山城を築くにあたり人柱をたてる代わりに、石に百万一心と書いて埋めたといわれている。

釣井の壇の井戸跡

 

百万一心の石碑

人を大切にした元就の証として語り継がれている。サンフレッチェ広島のシンボル三矢の訓えも有名。

 長男毛利隆元は本家を継ぎ次男元春は吉川家の当主になり安芸、石見を支配し、

3男の隆景は小早川水軍を率いて1550年厳島合戦を勝利に結びつけた。

 桶狭間の戦い 鵯越えの戦い 厳島の戦いを 日本3大奇襲合戦という

 養子縁組人質乗っ取り 情報操作 戦のみに生きた毛利一族 豊臣秀吉の血縁者小早川秀秋の裏切りによって負け組になった毛利はこの郡山が原点であった。

 

毛利家の旗印

 平和にいきて暖衣飽食言いたい放題で責任の問われない現代と自分を見つめて

 いい時代に生まれたと運の良さを思うのであります。

  

本日も無事終了、雨がぽつぽつ。

下山ご駐車場に到着は3時雨が落ちてきた。

 事務局の綿密な予定表は他の山の会のことは知らないが相当に自慢できることではないかと。またブログ作成している方には頭が下がるおもいである。


Sunday, 22 November 2020

亀ケ岳 Kamegatake(広島県府中市)

                                              今回は香口さんの寄稿です

今回は府中市の亀ケ岳への山行です。歴史の詰まった山のようで楽しみです。

車で山陽自動車道を走り久井ICで下り、486号を東に進み、剣先橋交差点を左折し府中市立公園の駐車場に向う。 

高速道の東広島市辺りではこの季節ならではの霧が幻想的な風景を醸し出ている。

府中市公園の駐車場に到着しN氏と連絡を取ると、少し奥の隣の駐車場にいるとの事でそちらに移動する。

文芸のこみちから登り始める

まずは文芸のこみちから登り始める(10:04)。この道は府中八幡神社への参道で、両側には歌碑が並んでいる。

府中八幡神社に通ずる参道

高齢の女性が一人で登っておられ話し掛けると、そろそろ紅葉が綺麗になったかと思い来たとのこと。

市民に親しまれているのだと思われます。健康づくりにはこのように気軽に楽しめる公園が一番ですね。

八幡神社前では見事な紅葉を堪能する。先程の女性も喜ばれるだろう。

八幡神社の鳥居前と紅葉
 
八幡神社は室町時代山名氏の目代宮田備後守が八ツ尾城の守護神として創建したとのこと。 

八幡神社社殿

ここからがいよいよ山道だ。まずは階段に取り掛かる。登り口には健康の道100選とあり、頂上まで82キロカロリーとある。 

ここから山道、妙見社に向かって階段を上ります

途中、早午明神の祠があり、忘れものの傘か急な雨用に用意してある傘なのか解らぬが傘があり、管理者の優しさが感じられる。 

早馬明神の祠の横に?傘が・・

ジグザク道で高度を稼ぎ妙見社へと進むが、綺麗に整備された道なので登り易い。

妙見社(10:54)は室町時代末期山名氏が、妙見菩薩は国土を守るのに優れ人民安楽の功徳を施す開運の菩薩とされ、 又武家の守護神・軍神としても広く尊敬されていたため北辰妙見菩薩を城内に勧進したものだとのことです。

妙見社、開運の菩薩様がまつられている


ここからは府中市が一望でき防御の砦の役目を担ったのかも・・。

府中市を一望

妙見社の横から八ツ尾城があった八尾山経由で七つ池方面に向うが、途中郭と思しき平な場所や掘り切りらしい城跡の痕跡は残っている。八ツ尾城址を歩く時は道標はしっかりしているものの道は正に山道だ。

車道を横切り又山道に入り龍王山の展望台へ向うのだが、その山道は厳しそうなので車道を遠回りし展望所に向う。

大蛇伝説のある七ツ池の一番南の小さい平岩池に到着(11:58)。ここが展望台への分岐点、

七つ池の一番南の平岩池
 

腹も空いて来たので旗建山城址は止めにして昼食を取るため展望台に向う。

この先に竜王山展望台へ

展望台にて食事し荷物は軽くなるが体は重くなる。展望地から北に亀ケ岳山頂が見える。 

亀ケ岳山頂はすぐそこです

展望台から少し池の方に戻り亀ケ岳山頂を目指す。山頂に到着し(13:05)集合写真を撮り、 一息つき下山する。

青空の亀ケ山頂での一枚

登った道を引き返し、展望台の下を青目寺へと向う。すると早速たかおがみ祠がある。

たかおがみ祠
 

たかおがみ神は水を司る神さんなので七つ池の水が少なくなったら雨乞いのお祈りでもされたのだろうか・・。

順調に歩を進め鉄塔に出るが、鉄塔からの道が中電の人の鉄塔の保守管理用の道みたいで殆ど道無き道・・、尻餅もつかず良く林道に出たもんだ。

殆ど道無き道・・尻餅もつかず

ここに出てきました


青目寺は開基が813年で屋島寺の青目上人によるもので、元は七つ池辺りの山上に

四坊山腹に十一坊を従えていたとの事。

青目寺、青目上人により813年開基

今は道から少し奥まった所に小さい本堂と庫裏があり、平安時代等の仏像が安置してあるそうだ。

青目寺を過ぎると今度は日吉神社がある。平成25年に1200年大祭を催したとの石碑があり、これも古い。 

日吉神社

神社入口の鳥居が二つ並んでいて、一つは石造りの割合良く目にするもので他方は木でできた今迄見た事もない形のものだ。 

神社入口の二つの鳥居

少し歩くと又諏訪神社がある。諏訪神社は水の守護神で五穀豊穣祈る神なので五穀豊穣を願ったのだろう。 

諏訪神社頂の入り口


振り返れば歩いて来た亀ケ岳が見える。 

振り返れば亀ケ岳

駐車場へは旗建山城址は飛ばしたので計画より少し早く到着(15:10)するが、

帰り道の駅に寄り道したのでコムへの到着は計画(17:25)どおりとなった。

今回は平安・室町に思いを馳せながら歩く山道と、下山路での落葉で道なき道を滑りそうになって歩いたのが印象に残った。

 

山はいろいろあるから良いよねー。 

Saturday, 24 October 2020

大狩山 (Ookariyama 591.mh) 安芸高田市

                                                         今回は山根さんの寄稿です 

本日の大狩山の登山口は、麓の砂防ダム公園から

 2020年10月18日(日曜日)

街では、やっと金木犀の甘酸っぱい香りが漂うようになった。やっとである。今年はいつもより遅いようだ。香りを嗅いで辺りを見回すと、庭の隅で、白っぽかった小さな四弁の花の房が、橙色に濃くなっている。

今朝は、かなり冷え込んだ。それまで広島地方は結構暖かく、土曜日は前日の深更から降り出した雨が午前中まで続いた。

早朝、空は一部に切れ間があるものの一面の雲に覆われていた。だが、出発地の商工センターで待ち合わせている間に、雲はだんだんに東へと流れ、高速道に乗る8時半すぎには、すっかり青空となっていった。予報どおりである。


本日は、安芸高田市北方の里山、大狩山(おおかりやま)(59㍍)を目指す。2台の車に分乗した6名と直行組2名の総勢8名で登ることになる。

本日の8名、大狩山の山頂にて

 この山行の計画者から送られてきた資料に目を通すと、「和泉式部が歌を詠んだとされる尼子道、そのゆかりのある峠など、夢とロマンに満ちた山塊」とある。はじめは、どうせ散歩がてらの低山だろうと思っていた私に小さな期待感を抱かせた。はてさて、どうだろう?

安芸高田に近づくにつれ、高速道は濃霧に覆われて薄暗くなってきた。三次盆地を中心にして起こる、この時期に特有の現象である。しかし、高田ICを出る頃には、霧は山の方に吹き寄せられ、登山口のある砂防ダム公園に着いた9時半過ぎには、すっかり晴れ渡っていた。あぁ、絶好の登山日和である。

砂防ダム公園の駐車場と茶店がある

と、ここまで書いてきたが、実は、筆者は未だ大いに悩んでいる。これまで数々の山に登り、景色なり、佇まいなり、厳しさなり、花なり、流れなり、いろいろな出会いに心を動かされてきた。ところが、この山に限り、ほとんど何も無い。ごくごく普通の山道を上り、そして下りてきただけである。急登と言える所も無くダラダラと稜線を上り下りするだけで、頂上や展望台から眺望も無く、花々もほとんど咲いていない。唯一良かったのは、下りの展望台から、条件の良い時にしか臨めない三瓶山の山塊を遠望することができたことである。

展望台から三瓶山(中央の尖った青い山)が見える!

しかし、悩んでいたのでは、山行の記録作りはできない。誰かが言っていたが、気持ち良くルンルンと山を歩きたい人たちには、打ってつけの山かも知れない。「ビバ!大狩山」そして「お山は晴天」である。

思い直し、以下に、本物の登山の記は、沢山ある他のブログに任せることにし、私なりの記録を残しておくことにする。

お山は晴天なれど、山の紅葉はまだ先・・

9時50分、茂谷川の砂防ダム堰堤の西側(向かって左)を進み、鹿や猪除けの鉄柵の扉を開け閉めし、上り始める。くの字に曲がる袋状の周回コースを、まずは南へと進む。道幅は広い。8分ほど進んだところで、せせらぎを渡る。何という木だろう、赤い実が青い空に映えていた。

登り口のわずかな秋の気配、「サンゴジュ」の赤

この赤い実は?「ミヤマガマズミ」か?

10時5分、「大狩山○㎞・登山口○㎞」の標識、13分には、「大鍛冶屋跡100㍍先」の標識を認める。前者の標識は、その後も現れるが、すべて朽ち果て、役に立たない。

「大鍛冶屋跡100m先」の看板

10時35分、「大狩山0.5㎞」と読める標識あり、谷筋の道を東へ進み、やがて、檜の樹林帯にロープの張られた急坂に至る。5分も上ると、主稜線に出、再び、南へ進む。

ヒノキ林が整然と林立する、国有林か


補助ロープを伝って急斜面を登れば、尾根筋へ

「頂上まで0.5km」の看板

花はほとんど無いが、アケビ色(白っぽい紫色)のキノコがあちこちに生えており、時折、赤や白のキノコも混じる。稜線を挟んで植林された国有地と雑木林の民有地を分ける白いペンキを塗った木が目立つ。赤松も多いが、無論、松茸なんぞ望むべくもない。

アケビ色(白っぽい紫色)のキノコ

白い色のキノコもある

10時55分、あっけなく、頂上とおぼしき小さな広場に至る。南西の方角が開け、白木山や鷹巣山が見えるとのことであったが、定かに特定はできず。案内板は白け切って、かすかに“大狩山山頂”と認められた。

大狩山頂上(591m)の広場、白い看板にうっすらと

大狩山山頂から南東の方角、白木山が見える

山頂で昼食の予定だったが、未だ時間も早いし、より良い眺望を求めて、展望台で摂ることにし、11時10分、早々に西方向に下る。木漏れ日の平坦な山道を、気持ち良く進む。

大狩山山頂から西へ、気持ちの良い尾根筋歩行

左は灌木林、右側はヒノキ林、境界の木に白いマーク

「リヨウブ」の木、貴色い看板がところどころにある

11時28分、鞍部に人工的(断定はできない)に盛り上げられたような蒲鉾形の道を行く。これから先、北に続く路が尼子道だろう。

蒲鉾形の山道が暫く続く、尼子道か

ところで(閑話休題)、資料では「古代と中世のロマンを求めて尼子藩ゆかりの山」とあるが、そもそも、藩は江戸時代からのもので、戦国時代に“藩”なるものは存在しないし、この辺一帯は、毛利一族の勢力圏の中心地で尼子の影響があった筈も無い。また天文9~10年(1540~41年)の尼子軍3万による郡山城の戦の折も、郡山城は直線距離で4~6㎞南東と離れすぎており、尼子がこんな遠くまでも布陣したとは考えにくい。

以上は私の曲学だろうか?「ゆかり」とは、どんな縁があったのか謎で興味深いところではある。ご存知の方は、ご教示願いたいものだ。

脱線を元に戻そう。

11時45分、展望台に到着。周囲の眺望を期待したが、望めるのは北側のみで、頂上よりも狭い。しかし、三瓶山だけは、空気の澄んだ晴天のせいで、バッチリと雄大な山容を視認することができた。さすがに三瓶山。中国地方の勇である。

展望台の看板、三瓶山が今日は見えた!ラッキー!

いつものように、女性二人からの差し入れをおいしくいただき、コロナ禍の“go to travel”や“go to eat”の話を盛んにしつつ、昼食を摂った。結論は、頭の良い官僚の考える策は、難し過ぎるとのことであった。

12時20分、下山を始める。緩やかな山道を上り下りしつつ、元の駐車場登山口を目指す。35分、ロープの張られた急坂に至る。上りにあったロープより急なようだ。

12時42分、茂谷川を右に砂防ダム堰堤に続く広い路に出、47分、鉄柵扉を出る。

砂防ダム公園に帰着

イノシシやシカよけの、鉄網格子の扉を閉める

大狩山と砂防ダムに別れを告げる

駐車場到着、12時50分。ちょうど3時間の山行であった。

あっけなく終わった大狩山だったが、今日一番の収穫は、やっぱり小春日和の好天に恵まれた中、山歩きができたことである。歳を顧みず、只管(ひたすら)テッペンを狙いたがる我が性に猛省!

低山逍遙こそ、我が原点。金木犀の香りのごとくゆったりと漂いたいものだ。

                           了。