Wednesday 5 June 2024

賤ヶ岳・伊吹山・安土城 Sizugadake・Ibukiyama・Azuchizyou

賤ヶ岳 (421mh)Sizugaake

2024年 5月21日

朝7時、スッキリ晴れ渡った青空と明るい日差しの中を、2台のレンタカーが五日市インターのETCを抜け、山陽自動車道から中国縦貫道に入り、三次市に向かう。この度のこのハイキングツアーを企画した、もう一人のメンバーのNさん(広島県三次市に最近移住)をピックアップし、明日山会メンバーの計11人でこの度の3日間の遠征ハイキングツアーが始まった。

車は一路、関西は滋賀県の琵琶湖の東岸に位置する、長浜市まで4時間のドライブ。その間の昼食を済ませ、全員体調はOK大津SAを過ぎたところから、米原JCTから、道路は平日にもかかわらず車が渋滞。木之本ICから最初の目標の賤ヶ岳(しずがたけ)の登り口にある麓のパーキング場にPM2時40分到着。

賤ヶ岳(海抜41mh)は、木之本町の大音の登山口からのアップが約300mの山で、リフトは頂上近くまで行けるが、リフトの終点から、さらに50mhの坂道を約10分ぐらい歩かなければ、賤ヶ岳山頂にたどり着けない。

 リフトの乗り場の右側には、歩いて登れる登山口がある。リフトの係の人が、歩くか、リフトか、どちらにするかを聞いてきたが、我々、健脚の明日山会メンバーは、最初に歩いて登る方を選択。帰りはリフトで降りることにする。

登山道とリフトは並行して続いている。

 登山道は、リフトの架線と支柱が続いている谷間を縫うように、並行して、ジグザグに続いており、比較的に登りやすい傾斜。時折、リフトが走っているその真下を頭上のリフトを見上げながら、登山道を歩くことになる。登山道の山間の谷には新緑の木々が生い茂り、谷間から麓の木之本町の田んぼや家屋が見える。

約一時間、ジグザグの坂道を登りきると、空が急に開け、木の葉の間からまぶしい太陽の光がさし込む地点に到着。そこは山の鞍部で、その近くには先ほどの下から上がってくるリフトの終点もある。山頂は目の前200m先に見える。下山の時は、そこからリフトに乗り込んで下山することに決める。

そこまで登って来た時、メンバーの一人が、張り切り過ぎて、いささか早いペースで歩き、リフトの終点の辺りで、ついにバテる。他のメンバーがサッサと先に登るのを横目に、暫く横になって休憩。その地点からは、頂上は目の前だが、美しい奥琵琶湖とその湖岸が眼下に綺麗に広がる。

 賤ヶ岳山頂に到着、琵琶湖の北岸が見える.
 そこから約200m先、約50mhほどアップした所に、頂上の石碑が見える。そのバテ気味の一人も「もう10分頑張れば、頂上だ!」と自分に言い聞かせ、モタモタと最後の頂上への登頂を試み、3時52分についに賤ヶ岳山頂に到達。
 山頂は琵琶湖及び眼下の景色が是眺望です。また、歴史を感じる史跡・公共トイレ等施設もあり素晴らしい山頂です。
 私も、ちょっと腹痛を感じ、腹を抑えながらトイレを探していると、メンバーのNさんが、それを察知して、「あそこにトイレがあるよ!」と、その指先の向こうに小さな建屋、中に入ると、簡易水洗トイレがある!助かる。「こんな山の上に立派な水洗トイレとは素晴らしい!」と感激。

賤ヶ岳山頂広場

山頂からの眺めは、北東に余呉湖。西から西南にかけて琵琶湖とその対岸が見え、山のふもとの町も良く見える。戦国時代に多くの将兵がこの山に登っては、敵の動きを観察したことだろう。

ここで、松尾芭蕉の一句が浮かぶ。 “夏草や 兵(つわもの)どもの夢の跡” がピッタリの場所。芭蕉のこの句は奥州の平泉の古戦場で歌われたが、どこの古戦場も同じ雰囲気がある。

広場には戦跡碑や戦没者の碑

 山頂広場には結構広く、高く成長した木々が所々にあり、「賤ヶ岳嶽合戦四百年記念植樹」などの植樹もある。

本能寺の変の後、信長の後継者争いで羽柴秀吉と柴田勝家が対立し、天正11年に賤ヶ岳を中心に、二人の武将を中心とした戦が繰り広げられ、羽柴軍が大勝利を期した戦場。「賤ヶ岳七本槍の話」で世に知られている、有名な七人の若武者の話。

広場には戦跡碑や戦没者の碑が建てられている。

賤ヶ岳の戦いの、戦没者を偲びつつ…

 琵琶湖を右に見ながら、山頂広場からリフト乗り場へ移動し、

登るときに下から見上げていたリフトで、全員楽に山を下ることができた。


5月22日 伊吹山(1,377h)へ登山 


車窓から見た伊吹山


 本日は、その伊吹山をめざします。滋賀県と岐阜県との県境に位置し、この地域では一番高い山。日本百名山のひとつに数えられる自然豊かな山です。

伊吹山は2023年7月12日の大雨により、麓から伊吹山への登山道が大規模に崩落し、麓から伊吹山へ歩いて登山することはできない事となったので、車でいける伊吹山の9合目まで通じている伊吹山ドライブウエイで、壮大な山並みの景観を実感する。

伊吹山ドライブウエイのゲート

  国道365号線沿いの伊吹山口の交差点を起点として、料金所をくぐり、切り立った新緑の林の中を抜け、車はグングン上昇する。ところどころに、現在の走っている道路の標高と、今何県を走っているかを記した看板の標識を目にする。

山頂近くまで続く伊吹山ドライブウエイ

 伊吹山ドライブウエイが山肌を縫って、遠くまで続く先を見ながら進むと、途中、12km地点の上平寺越駐車場があり、そこで、一時休憩。周囲の新緑に覆われた山並みと、ドライブウエイが山の彼方までズット続いている風景を堪能。

上平寺越駐車場にて、

 途中、大勢のバイクライダー達が、バイクをガードレールの傍らに止めて、それぞれ大きな望遠レンズを構え、下の谷底を覗いている様子。彼らは、何を撮ろうとしているのか?

霧が立ち込める中、鳥か何かが、谷を飛来してくるのを待っている様子。「イヌワシ」でも飛んで来るのかな?

終点の山頂駐車場に着いた。結構大きな駐車場で、普通車600台は止められるとか、車外に出ると、気温は低く、トイレがちかくなる。

近くに「スカイテラス伊吹山」という名の売店があり、近くにあるトイレは有料。小銭を投かんして用を足す。10円以上の寄付をしてくださいと書いてある。


西登山道コースの出発口のゲート付近、草花の写真


伊吹山ドライブウエイの終点は、山頂の9合目の近くの大駐車場(標高1260m)。車をパーキングして、そこから山頂までの3本の登山コースがあり、その中で、一番傾斜が緩やかな「西登山道コース」を登り、周りの景色を楽しむことにする。

西登山道コース

 西登山道コースは片道40分で、道幅は大きい。天気が良ければ、琵琶湖、日本アルプスや白山などが見えるが、あいにく、霧がかかっているので、景色はサッパリ。

登山道の入り口には、金網のゲートがあり、二ホンジカの侵入を防ぐ囲いがしてあった。また、獣害対策の募金箱も置いてあり、いろいろと対策をしているようだ。 

登山道の坂道の両サイドは花園になっており、その時々の花が咲いている。花園を通るとまでは行かないが、可憐な黄色い花 “キンバイソウ”かな?入口で見た、草花の写真一覧にある、キンバイソウに良く似ている。

可憐な黄色い花は“キンバイソウ”

登る途中の道には大小の白い石がゴロゴロして、ちょっぴり歩きにくい。Mさんが、ここの地質は何だろう?と、疑問を投げかけてきた。白い瓦礫のような石が散らばっている。

 後から、ネットで調べた結果、太古の時代に、この山が海底にあったものが隆起し、石灰岩などが、多く検出されることや、この山で、今でも石灰を採取していること、山口県の秋吉台のカルスト地形とよく似ていることなど、興味は尽きなかった。

ここで、伊吹山に関する質問。

〇伊吹山の山頂の付近が草原になって、何故、大きな樹木が育ってないのか?

伊吹山は全山が特殊な地質である石灰岩の山、雨が降らないと、乾燥しやすく、岩がゴロゴロで、大きな木が生えにくく、草原になりやすい。さらに、琵琶湖の湖畔にあるため、日本海側気候の影響を受けやすく、冬には猛烈な偏西風が吹き、風雪の被害もあり、草原の状態が続いているそうです。また、昔は、燃料に木材を採取していましたが、そのため木を伐りすぎて、禿山になった話もある。

〇伊吹山の麓からの登山道は何故、いつ頃から、通行止めになったか?

最近は、日本全国で、二ホンジカの食害により、山頂等のお花畑の衰退や、登山道のある南斜面の草原植生の緑地化が進行し、特に、令和元年頃から、南側斜面で降雨の影響による土壌浸食が深刻化して、令和5年7月12日に、大雨により土砂流出が発生し、登山道(上野登山口から山頂まで)が通行止めになり、現在、復旧を進めているところだそうだ。

伊吹山の山頂付近は霧の中

 山頂は霧がかかって、山頂からの視界は真っ白。伊吹山は古代からの霊峰とされ、神話に登場する日本武尊(ヤマトタケルのミコト)の像が我々に語り掛けてくる。

 古事記では、日本武尊(ヤマトタケル)が伊吹山の荒ぶる神を倒そうとして返り討ちにあったという神話が残されている。

白い猪(イノシシ)は伊吹山の神の化身で、その時、山の神は蛇になって現れ、日本武尊(ヤマトタケル)は、山の神の化身を見破れず、また、それをまたいで、通り過ぎたころ、神の怒りにふれ、にわかに山は暗くなり、どこを歩いて行ったら良いか分からず、さまよってしまう。それを強引に進み、さらに大粒の雹(ヒョウ)に降られて病気になり、その時、護身の「草薙の剣」をミヤズヒメの所に置き忘れてきたことに気が付くが、時すでに遅し。最終的には崩御したと言われている。日本武尊(ヤマトタケル)の神秘的な試練とその最後を描いた伝説がある。

その白い猪(イノシシの像を霧の中の山頂の社で見かけた。

白い猪(イノシシ)が鎮座されてます


そこで、登頂記念写真を近くに居られた、登山者の方にお願いして、撮影していただく。

日本武尊が我々を、見守っておられる・・・

伊吹山頂には、山小屋もあり、そこでは、お土産や伊吹山の登頂記念バッチなどもあり、また、日本武尊の像もある。

下山は中央登山コースを降りて、山頂駐車場に戻り、再びスカイラインで下りて、その後は、麓の関ケ原の古戦場後に向かう。


関ケ原古戦場記念館

 関ケ原では、かって徳川家康と石田三成が争った天下分け目の戦いの場で、岐阜の「関ケ原古戦場記念館」を訪れる。

 館内のグランドビジョン室で、巨大な床面スクリーンで、東西の陣営の動きと、戦いの様子が映し出された映像で、両軍が布陣した戦況の状況を俯瞰する。

 そして、次のシアター室では、双方の大軍団が激突する映像の中に、突然、投げ込まれてしまい、目の前を黒い長い槍や、鋭く光る刀が飛び交い、大音響の叫び声の中今にも、殺されてしまうのではないか、という恐怖が走る。
 
 座った状態で、目の前の目の回るような合戦の様子を見つめていると、その椅子までも、ごとごとと、キシム音がして・・・思わず自分も椅子の手すりを固く握っていた。

 あたかも、自分が本当に戦闘に巻き込まれて、逃げまどっているような、リアルな体験をした、数分を過ごす。

劇的な映画の後は、ホット開放されて、一息。展示室を見て、最上階の展望室からは、関ケ原古戦場が見渡せることができ、後に、石田三成が負けて逃げていく、笹尾山を見に行き、関ケ原の古戦場見物を終える。


思うに、今の平和な時代には、戦で殺される心配もなく、親しい仲間と、山をエッチラ、オッチラと登れて、、、美味しいご飯と酒が飲める、幸せを感じる。


長浜の旅館は「三谷旅館」到着。

 昨日から泊っている長浜市は豊臣秀吉のゆかりの地であり、我々が今回、お世話になっている旅館は「三谷旅館」で、今晩の食事が楽しみだ。


宴会は盛り上がりました。

旅館は和風のこじんまりした旅館で、家族的な雰囲気のおかみさんが、我々11人を暖かく持てなしてくれる。琵琶湖の特産「小鮎」などが上手に料理され朝の食卓にでてくる。

三谷旅館の前の通りは、同じような二階建ての建屋が続く町屋通り。近くには、小川があり、旅館の人の案内で、この時分には蛍を二、三匹、目にすることができた。旅館の前を通りがかりの人も、挨拶を交わされ、いかにも遠来のお客を暖かく持て成してくれる、雰囲気が漂っていました。

三谷旅館の玄関前の通り、閑静な路地

 長浜市には、長浜曳山祭りという、出し物があり、美しい曳山や子供狂言などの行事があり、皆を堪能させる。その写真が、この旅館の宴席にも飾ってある。

おかみさん、お世話になりました。

5月23日  安土城

標高198mの安土山一帯に、織田信長の居城として、建てられた城の跡。

正面入り口から、ずっと長い階段が続く。なんでも、天守閣の跡地まで450段の階段を登って行くことになる。

それにしても、長い階段を良く登って、お勤めを果たしたものだと、感心する!


安土城の、天守閣へ続く階段

「昔の侍は、足腰は強くなくちゃあ、務まりません。」と言う声が聞こえてきそうだ。

城の石垣は、この頃から始められた「野面積み」技法で造成してある。大手道を登り切り右の方へ進むと、大きな「仏足石」がでんと置いてあり、石垣の一部として使われたようだ。

この階段の直ぐ上方に天守閣の跡

 さら頂上付近には、一段高い石垣で囲われたところが天守閣となり、ここに五層七階(地上6階地下1階)の大きな天守がそびえていた、と伝えられている。

この天守はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さであったと伝えられ、高さ33mの木造高層建築は、当時わが国で初めてのものであったとの、説明がある。


三重の塔

安土城天守跡の西下の二の丸跡から少し降りたところに信長公の本廟があった。

信長が没したのち、戦国大名や江戸時代の大名が、この安土城を手本にして、優美な高層の天守閣を競って構築したと伝えられている。

仁王門

この地を案内するガイドさんの調子のよい説明に、聞き耳を立てながら、菩提寺や三重の塔、仁王門などを見て回り下山する。

信長公の思いに心を馳せ、彼の執念の城である安土城の成り立ちを入念に見て回った次第。

今回は、滋賀県は琵琶湖の東岸沿いに多くの史跡やお城などを見て回った。自然の地形をうまく使って、それなりに、先人たちがその時々を生きる努力を重ねてきたんだなと感じる。

一路、広島へ帰郷。