2020・11・22
よく晴れた青空のなか 殿3方 姫3方、が2台の車に分かれて8時に商工センターを出発。
目的地は標高197・6M 三原の新高山、昼からは標高390M比高190M 安芸高田市の郡山。明日山会始まって以来の低山である。
9時過ぎに本郷新高山登山駐車場に到着するとそこには、車・バイクが沢山駐車してなんか大変活気がある
目の前にそそり立つ新高山(にいたかやま)
(続日本100名城)の幟がたててあり観光協会の人の姿も見える。
目の前にそそり立つ山が新高山、沼田川を挟んで東が高山。
私(M)は神社仏閣巡りと歴史由来ものが大好物で山登りはその付属のような感じである。
足腰が衰えたのでその言い訳にしかすぎないのですが“..
まず登るまえに本郷 沼田 吉田 の歴史を1516年から1555年の間を見てみましょう。
(西の桶狭間の戦い)有田 中井手の戦い
1551年 小早川隆景 高山城に入城。
1552年 小早川隆景 沼田川(ぬたがわ)の対岸の新高山に根拠を置き、そこに新高山城を築くのです。
城完成後、直ちに旧勢力を一掃し毛利系小早川氏に塗り替えました。源頼朝義経の有力武将で鵯越えの合戦で大活躍した小早川一族がここに消え去ることになる。
9時半駐車場を出発右に神社を拝みながら5分ほどで階段になる
「ニイタカヤマノボレ」の合図でワッセ、ワッセ、
道はびっしりと落ち葉で埋もれていてクヌギの木のとげのある葉で、ドングリもイガイガに囲まれ強そうな感じである階段正面に大きな案内版がある。
その下に続100名城のポスターが張ってありスタンプラリーの案内もある本郷町の町お輿の シンボルなのであろう。
史跡、小早川氏新高城の跡の看板
5分ほどで番所跡に着く大手道を警備する門で3か所ほど造られ、その西側に元就と正室妙久を弔う寺院がある。 毛利一族の城であるとの意味が込められているのだろう。
カエデやクヌギの紅葉
そこからすぐに中の丸跡 本丸跡となり展望の良い 詰の丸あとに到着したのが10時20分音声案内が絶えず響き、絶えず登山客がいる。
集合写真を撮り、ここから眺める景色は素晴らしい
向かい山は高山その間に流れる沼田川が三原の海に向かって白くながれている
高山と三原の先にしまなみの大橋が見える。
沼田川が白く光って三原の海に続く
谷間には、山陽新幹線とJR山陽本線が交錯している
貨物列車が丁度、新幹線の下を通過
この山は巨岩で囲まれ石鉄権現の摩崖仏が彫り込まれ力強い守護神が立っているのもいい。石鉄権現はたぶん石鎚権現のことと思うが..。
10時半新高山の下山開始。
新高山駐車場に11時過ぎに到着。直ちに、郡山に向けて出発。
郡山公園駐車場で直行のMさんと合流12時半公園の四阿家で昼食をとる。
ここら辺で昼食
いつも沢山のデザートの提供があってこの会は家族的でいいなー。
この吉田郡山城跡はあまりにも有名で、
1540年吉田郡山城の戦いで、尼子軍3万に対して毛利軍2千 大内軍の援軍をうけたが尼子軍に勝利して毛利の安芸戦国大名の地位を築く。
毛利元就公の墓所山道
釣井の壇の井戸跡
百万一心の石碑
人を大切にした元就の証として語り継がれている。サンフレッチェ広島のシンボル三矢の訓えも有名。
長男毛利隆元は本家を継ぎ次男元春は吉川家の当主になり安芸、石見を支配し、
3男の隆景は小早川水軍を率いて1550年厳島合戦を勝利に結びつけた。
桶狭間の戦い 鵯越えの戦い 厳島の戦いを 日本3大奇襲合戦という
養子縁組人質乗っ取り 情報操作 戦のみに生きた毛利一族 豊臣秀吉の血縁者小早川秀秋の裏切りによって負け組になった毛利はこの郡山が原点であった。
毛利家の旗印
平和にいきて暖衣飽食言いたい放題で責任の問われない現代と自分を見つめて
いい時代に生まれたと運の良さを思うのであります。
下山ご駐車場に到着は3時雨が落ちてきた。
事務局の綿密な予定表は他の山の会のことは知らないが相当に自慢できることではないかと。またブログ作成している方には頭が下がるおもいである。